金剛峯寺を案内

 

 高野山の概要

 

 高野山は、平安時代の初め、弘法大師・空海によって初めて開かれた日本仏教の一大聖地でございます。

 弘法大師・空海は、国家安泰、世界平和、また、修行者のために、人里離れた山奥に、真言密教の根本道場を建立する願いを持っておられました。

 その願いが叶い、西暦816年(弘仁7年)に当時の帝・嵯峨天皇より、この地を賜りました。

 海抜約1千mの山上に広がるこのお山は、東西約6k南北約3kの盆地で周囲を内八葉外八葉の峰々に囲まれ、蓮の華のような地形をなしております。

 10世紀後期頃から大師入定信仰が生まれ、高野山を弥勒浄土とする信仰や阿弥陀浄土とする信仰と合いまって、一般民衆の信仰と尊敬を集め、千年以上も前から、多くの人々のお参りが絶えません。

 西暦2004年(平成16年)7月には「紀伊山地の霊場と参詣道」としてユネスコの世界文化遺産に登録され、国内はもとより世界各国の方々が数多く訪れております。

 またフランスのミシュランが高野山を三ツ星に選定されています。

金剛峯寺前

金剛峯寺正門

 

金剛峯寺前駐車場より境内に入る最初の門を正門と申します。

 金剛峯寺の建物の中で一番古く、西暦1593年(文禄2年)に建立されました。

 この門の前に、桶や盥を並べて杉の飾り付けがされています。

 これは高野山独特のもので、昔の将軍や大名が馬で訪れた時の馬の餌と飲み水で、馬盥杉盛と申します。現在でも昔の名残で高野山の大きな法会の際は、馬盥や杉盛が用意され、境内の石畳みの両側には、結界を意味する杉の葉が敷かれます。

金剛峯寺経堂

 この経蔵は、西暦1679年(延宝7年)3月、大阪天満の伊川屋から釈迦三尊と併せて寄進されたものでございます。

 経蔵は、一切経などを収蔵するところで、火災が発生しても安全なように主殿とは別に建てられています。

金剛峯寺本坊

 金剛峯寺は、元は真然大徳のお住まいがあったところで西暦1131年(天承元年)1017日に覚鑁上人が鳥羽上皇の許しを得て大伝院を建立され、その後、豊臣秀吉公が亡き母の菩提を弔うために木食応其上人に命じて建立された寺院で、その名を青厳寺と呼び応其上人のお住まいとなりました。

 その後、再三の火災によって焼失しましたが、現在の本殿は西暦1863年(文久3年)に再建されました。西暦1869年(明治2年)3月に青厳寺と興山寺の2ヶ寺が統合され、さらに全国の真言宗寺院を統括する管長職が置かれました。

 現在は、奥の院祖廟を大師信仰の中心聖地として結成された、高野山真言宗末寺約3600ヶ寺、信徒約1千万人の総本山として、高野山真言宗官長兼金剛峯寺座主のお住まいとなっています。

 向かって右側に囲いをした大玄関がございますが、ここは金剛峯寺の表玄関にあたるところで中門と申します。昔は、この中門から出入りできるのは天皇・皇族や当山の重役だけで、一般の方や僧侶は脇門や裏門から出入りしていました。

 主殿に向かって右側には鐘楼がございます。この鐘楼は金剛峯寺の前身である青厳寺の鐘楼で、県指定の重要文化財となっています。

 正面の屋根は檜皮葺と言い檜の皮を何枚も重ねて葺き、約50年毎に屋根を葺き替えます。屋根の上には桶が置かれていますが、これは天水桶と言い、雨水をためて置き、火災が発生したときに屋根を湿らすもので、防火対策の一つでした。現在では、消防設備や機器の発達により使われておりません。

金剛峯寺裏門

金剛峯寺額と霊木

 

金剛峯寺受付の横、正面に杉の切り株を展示しています。

 この木は、奥之院御廟の後ろに立っていましたが、長い歳月が過ぎ、落雷などによって木が傷み御廟保全のため取除いた時の切り株を、ここに展示しています。

 この霊木は高野杉と言われ元々は、高さ約57m、直径約2.87m、根元の周囲役9mとされています。

  正面の額は、西暦1984年(昭和59年)弘法大師御入定1150年御遠忌大法会の際に掲げられました。この名称は、お大師様が書き写されたと伝える『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経』と呼ばれる経典より金剛と峰という字を集めて表装しました。金剛とは永遠を表し強いとか堅いという意味で、峯は、最上の意味を表し、金剛峯は、大日如来を意味し仏教においては、大変ありがたい言葉になります。

持仏間と大広間

 

大広間は重要な儀式・法会が執り行われる処でございます。襖に描かれた鶴の群れ、松の絵は15世紀末から16世紀前期の画家、斎藤等室の筆と伝えられています。

 正面奥に燈明のともっている所が持仏間でございます。

 本尊は弘法大師・空海、その両側には、歴代天皇御尊儀の位牌と歴代当山座主位牌が祀られています。

海老虹梁

梅の間

 

この襖絵は、梅と月と水の流れで美しいものを総称しています。筆者は17世紀の画家で、狩野探幽斎守信と伝えられています。

柳の間

 

この襖絵は、19世紀中期画家、山本探斎の筆で、四季の柳と鷺が描かれています。

 この部屋では西暦1598年(文禄4年)715日に関白豊臣秀次が自害したことから

 「秀次自刃の間」とも言われています。

 当時、関白秀吉公には子供がなく、姉の子、秀次を養子にして豊臣家二代目の関白にしましたが、その後秀吉には実子、秀頼が生まれて以来、関白秀次は、よからぬ謀反をおこし、高野山に追放という事になりました。

 秀次は、高野山で仏門に入れば殺傷禁断の高野山で死を免れる事が出来るという応其上人のすすめにより、青厳寺で剃髪し道意禅門と名乗りました。

 しかし秀吉は、秀次を許さず、池田伊代守らが、秀次を誅伐するため青厳寺を包囲しました。応其上人をはじめ一山の僧侶は、秀次の命乞いをしましたが、聞き入れられず、最後には、応其上人自ら秀次に自刀をすすめました。

 秀次の遺骨は、高野御室光臺院の裏山に葬られ、祀られています。

渡り廊下風景

別殿

 

西暦1934年(昭和9年)の弘法大師御入定1100年御遠忌大法会の際に建てられた桃山様式の建築で、西暦1983年(昭和58年)までは一般信徒の休憩所として使用されていました。この大広間は、宗団・本山の主要会議の際に使用された大部屋で、東西両側各4つの部屋から構成されており、南北に長く西側が庭に面しています。

 

襖絵は、20世紀の画家守屋多々志画伯の作で、東側の襖には、弘法大師入唐風景などが描かれています。西側の襖絵は、花の間の連続で四季の花鳥が描かれ、真言密教の曼荼羅観を表現しています。

 

別殿東側の襖絵を紹介します。

 先ず手前の襖絵は高野草創と言われ、空海は西暦806年(大同元年)に帰国し、真言密教の根本道場たる聖地を求め、野山を歩き紀伊之国の山中で狩場明神と出会います。明神の従えた白黒二匹の犬に先導されて八葉蓮華の峰々に囲まれた絶好の聖地・高野山を発見し、ここに金剛峯寺を開創することを、決意された様子を描いています。

 

次の間は、折れ柳の別れ・明州の港・長安郊外の田園風景を描いています。

 左側襖には、西暦805年(延暦24年)恵果和尚より真言密教を授かった空海は、恵果の遺言「早々に郷国に帰り以って国家に奉り天下に流布して蒼生の福を増せ」を受け、急ぎ帰国するため、明州で橘逸勢と共に長安郊外覇橋で別れを惜しみます。唐の時代の風習として別れの時には柳の枝を折って贈ったとされる風景です。

 

正面の襖には、当時、明州は殷賑を極めた港町で世界中から大小の船舶が集まって、陸に、海上に、人々があふれていました。中央の大きな船は日本に帰る遣唐使船を描いています。

 右側の襖には、長安郊外の農民達の労働にいそしむ姿が描かれ、当時の農村の風景がわかります。

 

次の間は、長安の都でございます。

 左側の襖には、長安は当時西域地方の風俗が人気を呼び、服装、音楽、芸能、スポーツ、などがさかんにとりいれられました。桃の花咲き誇る楽遊原には小宴が繰り広げられ、西城風の服に身を包んだ貴婦人達が勇壮活発に長安の春を楽しんでいる風景でございます。

 正面の襖に描かれている長安は、今の京都の三倍ほどの広さがあり、世界最大の都市でした。城内には八十余りの仏教寺院をはじめ、多くの多宝塔があり、城外には街並みが広がりシルクロードがここに続いていました。空海一行もこの春明門を仰ぎつつ城内に入りました。空海は西明持を宿とさだめて青龍寺の恵果和尚を師匠として真言密教の勉強にいそしみました。

 右側のふすまには、長安城南東の隅にある公園の情景です。この公園では、多くの詩人が集まり、宴が行われていたようです。

 

次の間は難波津からの船出を描いています。

 当時31歳の空海は、留学僧として入唐する為、西暦804年(延暦23年)大16次遣唐使藤原葛野麻呂一行に橘逸勢らとともに難波津、今の大阪を出港しました。空海は第一船に乗り組み、第二船には日本天台宗の開祖、最澄が乗っていました。

新別殿

 

西暦1984年(昭和59年)弘法大師御入定1150年御遠忌大法会に伴い,多勢の参詣者接待の場所を設けるため、記念事業の一環として同年1月に新築されました。

 鉄筋コンクリート造りですが、本山の荘厳に合わせて入母屋の荘重なもので9178畳の二間で仕切りを外せば169畳の大広間になり大師教会大講堂に次ぐ広さです。

 正面には、お大師さま、向かって右には胎蔵、左に金剛界の種字曼荼羅を掲げています。後方には学問の仏様である文殊菩薩を、お祭りしています。平素は檀信徒方の休憩所として、お茶の接待をさせて頂いており、僧侶の御法話が随時行われています。

蟠龍庭

 

西暦1984年(昭和59年)弘法大師御入定1150御遠忌第法会の際、新別殿と同様に造られました。

 左側奥に勅使門が有り、その正面には奥殿が有ります。

 石庭としてはわが国最大の庭です。雲海の中で、雄雌一対の龍が向かい合い,金胎不二の相を表し、奥殿を守護する龍の姿を表現しています。龍を表す青い花崗岩は、大師ご誕生地四国より140個使い、雲海を表す白い砂は京都の白川砂が使われています。

奥殿

 

建物は本山の貴賓室で、西暦1932年(昭和9年)弘法大師御入定1100年御遠忌事業の一つとして建てられました。

 この地は木食応其上人の興山寺跡で、奥殿と別殿が建立されるまでは、旧制の高野山大学林と中学林がございました。

 襖絵は20世紀の画家石崎光瑤画伯の大作で、ヒマラヤとヒマラヤシャクナゲの風景が描かれ、正面にはお釈迦様を祀りしています。

 しかし、悲しいことに作者が完成途上に死亡し、鳥の足などが描かれておらず、未完成のままであり、現在は石埼光瑤画伯の遺作として残っています。

 この奥殿内部は非公開になっています。

別殿四季花鳥図

 

先ず牡丹が描かれているこの部屋の上段には、お大師さまがお祀りされ、桃山時代風の建物に合わせて牡丹一色で飾っています。牡丹は中国の花であり、しかも唐の時代には、最も愛好された花でございます。

 

次の間の桜は、日本を代表する花でございます。この桜の部屋に入ると春の息吹が満ちあふれています。美しく彩られる絵は、荘厳華麗な真言密教の花曼荼羅の世界が陶然として出現します。

 

次の間の蓮は、仏教の聖なる花です。夏の池、大部分を蓮華で埋め,一部に燕子花をあしらったこの部屋は、密厳浄土に見立てて描かれています。青い蓮は文殊菩薩に捧げる花、仏教国の泥池に咲き、汚れに染まらぬ清浄な花とされています。

 

次の間の楓は、高尾の楓を思い清滝川の清流を背にした紅葉です。高野の秋は、まことに美しく密厳曼陀羅の世界に人々を誘います。この部屋の上部には西暦1977年(昭和52年)の植樹祭のために登山された昭和天皇、皇后両陛下の写真が飾られています。

阿字観道場

 

阿字観道場は金剛峯寺第四百一世座主中井龍瑞大僧正の発願と多大な寄進により、西暦1967年(昭和42年)に建立されました。

 中央に阿字観を実習する部屋があり、両側に二間ずつ小部屋がございます。阿字観とは真言密教における瞑想法で月輪の中に梵字の「阿」を描き、阿は全ての言葉の始まりであり、宇宙の本体である大日如来を象徴しています。この観法は阿字を通して大日如来を瞑想し、仏と一体の境地に入るものです。

新書院

 

西暦1977年(昭和52年)418日に天皇皇后両陛下が御使用されたお部屋で、

 西側には、総槇造りのお風呂と洗面所がございます。

 この建物は、戦後に芦屋の篤信者より寄贈されたもので、拝謁の間、御召替え、御座所の三つの間がございます。

 襖絵は、狩野現在派、木村武山画伯の作、拝謁の間は山麓風景を描き、御召替えの間は唐の貴族生活風景、そして御座所の間はイソップ物語の一部を描いています。

 新書院の奥には、西暦1965年(昭和40年)の高野山開創1150年記念法会の際、松下幸之助氏より寄贈された茶室がございます。松下氏が裏千家茶道をなさっていた事もあって裏千家式建物になっています。

 茶室名は、元総理大臣佐藤栄作氏によって「真松庵」と名づけられました。

 新書院内部は非公開となっています。

中庭

中庭の池の周りには高野六木と呼ばれる、杉、檜、松、槇、栂、樅がそびえ立ち、馬酔木も石楠花の花も見られ、自然の素朴さが心を和ませ四季折々の風景が眺められる場所でございます。

書院上段の間

 

昔、天皇、上皇が登山の際、応接間にあてられていた部屋でございます。

 現在でも当山の重要な儀式は、すべてここで執り行われます。ここの間には、上段の間と装束の間があり、壁は総金箔押しで作られており、天井は折上式格天井、書院造りの様式で、床の間にはお大師さまをお祀りしています。

上段右側にある小さな房の付いた襖は「武者隠し」といい、襖の奥に小部屋がございます。

奥書院

 

昔は、皇族方の休憩所でしたが、現在は当山の会議などに使用されています。

 防寒用に、座敷内に囲炉裏があり、冬は薪をたいて暖をとりました。襖の絵は15世紀後半の画僧雪船と四代目雲谷等益とその息子の等爾の三筆によるものと伝えられています。この部屋は上段の間と共に、昔は当山最高のお部屋とされていました。

稚児の間

 

この部屋は上段の間の「武者隠し」の裏側にあたる小部屋です。

 天皇の随行が不寝番をしていた部屋でございます。

 奥には旧伯爵副島家より伝承された地蔵菩薩をお祀りしています。襖の絵は狩野探斎の筆と伝えられています。

真然大徳廊

 

真然大徳は、弘法大師御入定後の高野山を完成整備された方で、お大師さまの甥にあたります。大徳は、大師の真言密教興隆の根本道場たる大伽藍を建立される意思を継いで、真言堂、大塔、西塔などを建立し、高野山の経営、教学、弟子育成などの多方面にわたり大師の御遺志を守りその礎を固められました。西暦886年(仁和2年)光孝天皇のお言葉によって仁和寺を創建後、高野山に帰山され西暦889年(寛平元年)お弟子寿長に高野山金剛峰寺初代座主を附嘱し、西暦891年(寛平3年)911日中院において入寂なされました。

 各本山並びに高野山にとって大変重要な方であり、特に真然大徳なくして、今日の高野山の発展はありえなかったと言っても過言ではありません。

 この真然堂は覚鑁上人が、大伝法院を創設された折、精霊堂と称する多宝塔が建立されたが、その後、精霊堂がなくなり、西暦1640年(寛永17年)に真然堂が建立されました。西暦1988年(昭和63年)1121日、真然堂解体修理のおり、お堂より大徳の御舎利が出土しました。

 西暦1990年(昭和2年)911日を中心として7日間、高野山第二世傳燈国師真然大徳1100年御遠忌大法会が執行され、その時から真然廊としてお祀りし、誰も中に立ち入れないようになりました。金剛峯寺では毎年911日を真然大徳忌とし、法会が執り行われ「南無傳燈国師」とお唱え申し上げます

囲炉裏の間

 

土室とも呼ばれ、昔は冬の寒い時期、暖をとった部屋です。

 奥書院にもございましたが、囲炉裏は高野山独特の暖房装置で、西暦1016年(長和5年)高野山に登山された祈親上人が残されたものです。

 現在では、毎年214日に行われる常楽会の際、囲炉裏に薪が焚かれ僧侶並びに一般の方々の休憩所として使用されっています。

 奥の壁には、弘法大師自筆と言い伝えられる縁結びの仏さま、愛染明王をお祀りし、左側に稚児大師をお祀りしています。

台所

 

この台所は金剛峯寺主殿と共に昭和30年に和歌山県県指定文化財とされています。

 水飲み場は、清い湧き水を高野槇の水槽に溜め、その隣にある釜土は現在も使っています。その隣には炭をおこす場所が有り、その上には防火対策として大変大きな煙突がございます。また、食物保管庫としては床下収納庫や天井から釣り降ろされた棚がございます。この台には、風通しを良くし、紙を垂らすのは、ネズミの侵入を防ぐために工夫されたものでございます。

 また大変大きなこの釜は、「二石釜」といい、一個で約98k(七斗)のご飯を炊くことが出来ます。三個で一度に約280k(二石)約2千人分のご飯を炊くことが出来ます。焚き口は、後ろに回り床板を外し階段を降りて焚く様式になっています。

 西暦1980年(昭和50年代)頃まで、この釜は毎年1228日の餅つきに使われていましたが、現在では使われていません。

 二石釜の真上には行灯が釣られ、正面には台所の神様、荒神さまをお祀りしています。

 また、そこに貼られている切り紙は「宝来または絵絹」と言います。

 お正月のお飾りの一種で、門松としめ縄にあたります。

 高野山では米が作れず、ワラが無くてしめ縄の代わりにしたものです。

 宝来は五穀豊穣・除災招福のために干支、宝珠、寿の文字を切り抜いて一年中貼っておき、毎年12月末、新年を迎える為に新しいものに取り替ええられます。

金剛峯寺の建物は、西暦1860年(万延元年)に落雷によって焼失し、西暦1863年(文久3年)に再建されたものですが、当時の襖などは無事持ち出されたため現在は重要文化財として残っています。

金剛三昧院の石楠花

御幣納

ロウソク祭り

紫燈大護摩

     大 滝