世界文化遺高野参詣道高野山町石道

慈尊院北門
慈尊院北門

 

高野参詣道

高野山町石道とは

 

高野山を開創した弘法大師は、京の都から高野山までの表参道に参拝者の便宜を図り、慈尊院から高野山までに1町ごとに木製の卒塔婆を立てたのが始まりです。木製の卒塔婆は傷みやすいので、高野山の僧、覚斅(かくきょう)は石の卒塔婆を立てることを念願し、それに応じたのが鎌倉幕府要人で後嵯峨天皇、北条正村、北条時宗、佐々木氏信、足立泰盛、らの協力よって20年かけて、

石制の卒塔婆による道標ができました

                       慈尊院の門前

180町石
180町石

 

 世界文化遺産慈尊院

 

高野山町石道のスタートである百八十町石があります。千年前より、高野山参りの本街道表玄関の最要所でした。また高野山開創時には、高野山一山の庶務を司る政所が置かれました。高野山への宿坊ならびに冬季の避寒修行の場とし重要な役割を果たしてきました。

 

丹生官省符神社
丹生官省符神社

 

 世界文化遺産丹生官省符神社

 

弘法大師が慈尊院を開いた時、その鎮守として丹生都比売明神と高野御子明神(狩場明神)の二神を勧請したのが始まりです。その後、官省符荘21ヵ村の総氏神として栄えた。後に、気比明神と厳島明神の二神を合わせ祀って四社明神になっています。国の重要文化財に指定されています。

                   展望台までの風景と草花

六本杉
六本杉

 六本杉峠

 

ここに六本の杉の木があつたのではなく見事な杉並木が続いていたと言われています。この峠は四叉路になつていて、直進すると世界文化遺産の丹生都比売神社に行くことができます。右側の道は世界文化遺産に追加登録された笠松峠から三谷坂に行きます。

二つ鳥居
二つ鳥居

 

 二つ鳥居

 

弘法大師が高野山を開創された後、西暦819年に丹生都比売明神と高野御子明神を高野山に勧請されて建てられたものです。天野、丹生都比売神社に鎮座する、丹生都比売明神と高野御子明神を遥拝するために建てられたものです。現代の鳥居は、江戸時代西暦1649年普陀落院そう遍が、私財を投じて石造りにしたものです。

神田地蔵堂
神田地蔵堂

 

 神田地蔵堂

 

地蔵堂には、お大師様と子安地蔵そして木食応其上人が祀られています。神田という地名は、天野丹生都比売明神に奉納する米を作っていたことから地名の由来だそうです。木食応其上人は、五穀を食べず修行された僧侶で、神田に農業用のため池を作ったと伝えられています。また豊臣秀吉が高野攻めを企てた際、木食応其上人の説得で高野攻めをあきらめさせて、その上高野山の復興に努められ現在の金剛峯寺の前身であるお寺を亡き母の菩提の為に木食応其上人に命じて建立した。その名を青厳寺といいました。

                       町石の草花

矢立地蔵堂
矢立地蔵堂

 

 矢   立

 

60町石付近が矢立です。昔この付近には四軒茶屋とも辻の茶屋とも呼ばれた矢立茶屋がありました。六十町石の上に地蔵堂があります。弘法大師がこの地域の繁栄と町石道を歩かれる人々の安全を祈願して、弘法大師自ら砂をこねて作った砂こね地蔵が祀られています。これより山上を高野とす。

袈裟掛石
袈裟掛石

 

 袈裟掛石

 

弘法大師が袈裟を掛けられた事から「袈裟掛石」言い伝えられています。また牛馬の背中に乗せ鞍に似ている事から「鞍掛石」とも言いわれ、他にこの石の間をくぐれば長生きするとか、望みが叶うと言い伝えられいることから「くぐり石」とも呼ばれています。これより上は高野山の「清淨結界」です。

 

押上石
押上石

 

 押上石

 

弘法大師の母が、結界を越えて高野山に入ろうとした時、一天にわかに曇り激しい雷雨となり、やがて火の雨になり親孝行な弘法大師は、大盤石を両手で押し上げ母をその下にかくまわれたと伝えられています。

五十三町石
五十三町石

 

 五十三町石

 

五十三町石は長年行方不明でした。昭和35年に再建されたものです。その後平成10年5月に谷間から原石が発見されて元の位置に戻されました。原石と再建された石とで2基あります。右側が原石です。昭和に再建された石はこの一基です。

                      町石道の草花

鏡石
鏡石

 

 鏡   石

 

今は苔むして見る影もないですが、昔は太陽の光に輝いていたそうです。昔からこの石の角に座って真言を唱えると必ず願いが成就すると伝えられています。

 

 

                       町石の草花

12町石
12町石

 

 十二町石

 

この石の寄進者は、秋田城介藤原泰盛「安達泰盛」安達泰盛は、町石建立に甚大な尽力された人です。自分でも町石を五基建立されています。安達泰盛は町石の開眼法要が行われたわずか一ヵ月後に、謀反の疑いがあるとされ平頼綱に一族もろとも殺害されてしまいます。幕府の主導権をめぐる対立が主因とされています。 

【霜月騒動】

大門
大門

 

 大  門

 

11世紀末頃、高野山の総門として建立されました。お大師様が高野山を開創当時は、現代地より少し下がった九折谷に鳥居が建てられていました。現代の建物は、1705年に再建されたものです。お大師様ご入定1150年の御遠忌の記念事業として、5年3ヵ月をかけ解体修理を行い、昭和61年10月に竣工したものです。両脇の金剛力士は、右側は、阿形像で江戸時代の仏師「康意」左側は、吽形像で「法橋運長」の大作です。中央門柱に掲げられている2枚の聯は、後宇多天皇の宸筆を臨書したものです。内容は右側 {日々の影向(ようごう)かかさずして} 左側{処々の遺跡(ゆいせき)を検知する} 意味は、お大師様は今も毎日欠かさずお姿をみせておられ、かって人々のために行った事業の跡や、修行の後を見て回られていると言う内容で、同行二人の信仰を示しています。この建物は、正面桁行21.4m、梁間7.9m、高さ25.1m、で国の重要文化財に指定されています。晴天の折には、遠く淡路島も望む事ができ、またここから眺める夕日は非常に美しいことから夕日百選にも選ばれています。 

1町石
1町石

 

 1 町 石

 

1町石は、伽藍境内にあります。国道480号を挟んだ歩道から見ることができます。この石を起点に慈尊院まで180本1町109mごとに建てられています。そして根本大塔から慈尊院までを、胎蔵界の道とされています。また伽藍境内には、もう1本1町石があります。それは奥の院御廟に向かっての1町石で、この1町石から奥ノ院御廟まで36本の町石が1町90mごとに建てられています。そして36本の町石全体を1本と数えて金剛界37尊を表しています。

根本大塔
根本大塔

 

 根本大塔

 

  この塔は、弘法大師と真然大徳の二代で西暦816から70年の歳月をかけて完成したと伝えられています。弘法大師は、この塔を真言密教の根本道場のシンボルとして建立されたので根本大塔といいます。多宝塔としては、日本で最初の建物です。高さは48.5m、23.54面です。本尊は、胎動大日如来が安置され、周りを金剛界の四仏が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩が描かれ、四隅の壁には密教を日本に伝えた八祖像も描かれ立体曼陀を構成しています。

世界文化遺産の参詣道を、私達語り部と歩いてみませんか。

興味のある方は、ご利用案内をご覧下さい。

 

 

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金剛三昧院の石楠花
金剛三昧院の石楠花

高野山開創1200年記念事業として再建された中門です。

中門に安置された四天王です。

持国天、多聞天、増長天、広目天